スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

井伊従五位下直政 

ii.jpg


井伊直政


井伊直親の子。1561年2月19日に遠江国井伊谷にうまれる。

幼名は虎松・万千代。兵部少輔・侍従・従四位下。

井伊氏は遠江国の豪族で代々今川氏に仕えていたが、直政が15歳のときに「汝はわがために命を落とせしものの子なり、われ報いずんばあるべからず」と、徳川家康から2千石で召抱えられた。

武勇・智謀共に優れ、『徳川四天王』のひとりに数えられ、常に先鋒を務めた。他の譜代衆に負けじと、常に自ら先陣を切って死に物狂いで戦ったという。
高天神城の戦いに参加。本能寺の変の際には家康に近侍して堺にあり、伊賀越えに従った。

7月の甲斐進出には、徳川の使者として北条氏との交渉にあたった。これにより武田の旧臣たち120名が配下に加えられたが、武田家の勇将・山県昌景の『赤備え』を引き継ぎ、甲冑はすべて赤で統一させている。この年、兵部少輔を称した。

小牧・長久手の合戦に先鋒として出陣し、池田恒興らの軍勢を破った。


信濃国上田城に拠る真田昌幸を攻め翌年の家康の上洛には羽柴秀吉から送られた人質の大政所を警護した。

聚楽第行幸のとき、秀吉の斡旋で従五位下・侍従となる。これは陪臣としては破格の待遇だったという。

小田原征伐後に徳川家が関東に入国すると、上野国箕輪城主、12万石の大名となった。居城を和田へと移し、高崎城と改称する。

関ヶ原の役には本多忠勝と共に東軍先鋒の軍監として西上、関ヶ原の合戦では宇喜多秀家隊に突きかかって西軍崩壊のきっかけを作る活躍を見せ、のちには撤兵する島津隊を追撃、副将格の島津豊久を討ち取った。

また戦後処理として毛利輝元との講和や山内一豊の土佐入国の援助を行っている。これらの功により石田三成の旧城・近江国佐和山で18万石を与えられた。

従四位下に叙任される。2月1日、関ヶ原の合戦で受けた戦傷がもとで死去した。42歳。法号は清涼泰安祥寿院。

35万石の彦根藩井伊家の始祖。なお、幕末の「安政の大獄」や「桜田門外の変」で知られる井伊直弼は、この直政の家系の末裔である。

島津追撃後に井伊直政が話した名言!!

捨てて苦しかるまじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし


クリックお願いします→FC2 Blog Ranking

byタカ


スポンサーサイト

山県右三郎兵衛尉昌景 

山県右三郎兵衛尉昌景 武田家重臣・飯富虎昌の実弟

本名を飯富源四郎といい、1563年に譜代家老衆3百騎持となる。

山県隊は甲州軍団の中でも猛者が最も多く、精強なことで知られ、山県隊3百騎のうちで、3通以上の感状を持ったものが67人もいたという。

昌景は、甲州軍団第一の戦闘部隊長でもあった。

山県隊は具足を赤色に統一、その勇猛ぶりは「赤備え」と恐れられた。

三方ヶ原の合戦では徳川家康軍に正面攻撃を仕掛け、秋山信友隊と共に家康本陣へと肉薄、大いに切り崩した。このとき、家康も自決の覚悟を決めたという。

長篠の合戦では敵陣へと突入、戦死した。このとき、全身に銃弾を浴びて半身の自由を失ったが、采配を口に咥えて指揮を続けたという。

武田家滅亡後に家康は山県隊の旧臣を井伊直政に仕官させ、「赤備え」を復活させたといわれている。

詳しいことは→http://www2.odn.ne.jp/~hag50290/jinnbutu/sengoku/yamagata.htmlを見てください。

これからもちょくちょく書いていきますので見てくださいね!!

クリックお願いします→FC2 Blog Ranking

byタカ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。